明日への視角
大内 力(生活研顧問 東京大学名誉教授)
昨2005年は、太平洋戦争の敗戦から60年に当るというので、学界、政界、言論界でも多くの国民、とくに「戦争を知っている」比較的高年齢の人々の間でも、戦争から今日に至るまでの日本の変化や今の日本の在り方について、さまざまな反省や批判がおこなわれた。それはそれぞれの立場や世界観に従ってむろん千差万別であったが、とくに「戦争を知っている」高齢者の多くには、昨今の世界とくに日本は60年前―というよりは世界恐慌とともに大きな変化を経験した1930年代と何となく似ている感じがする、その意味で歴史はくり返しているようだ、といった感慨をもらす人が多かったような感じがする。私もその世代に属するが、まさに70年前の時代をまざまざと思い起さしめられた一人であった。
その一々について語る余裕はないが、第一次大戦にたいする反省から、平和を最高の目的としつつ経済の発展に大きな夢をかけた20年代がもろくも大恐慌によって破綻を示し、日本をはじめ世界の大部分の国々が軍備の拡大に努め、政治・経済から思想や社会体制にいたるまでの覇を競うことによって社会問題に対処しようとしはじめたのがこの時代にほかならないことはいうまでもない。それはまさに第二次大戦の揺籃期であったが、日本人にとっては思想・信念・言論などの基本的自由を奪われ、経済を統制され、あげくのはて命まで国に捧げることを強要されるようになる序奏期でもあった。現在の世界と日本は、その再版期に入りつつあるのではないか。それが私の感覚なのである。
ただひとつ、当時と決定的に異なることは、当時のように一部ではあれ歴史の流れを見極め、自己の総てを懸けて歴史の流れに抵抗し、それにブレーキをかけようとする学生を中心とする若者や組織された労働者の運動はむろんのことそういう意識さえほとんど存在しないことである。「戦争を知らない」若者たちは、そういうめんどうくさいことには目をつむって、目先の生活さえ快適ならば、何もいうことはないと考えて日々をエンジョイしているように感じるのは老人の僻目であろうか。
われわれ「戦争を知っている」老人には、労働組合も形ばかりになり、労働運動も学生運動もほとんどなく、革新政党も「もの分かりのよくなっている」今の世の中の方が薄気味悪い!
(生活経済政策2006年1月号掲載)