「近代化」をめぐる時代転換の様相
山口 定(大阪市立大学名誉教授・立命館大学名誉教授)
「日本の9・11」ともいうべき昨年秋の総選挙以来、私は、日本社会の新しい状況について「時代転換」という言葉を使うのをためらわなくなってきている。私が最近刊行する機会を得た旧著『ファシズム』の岩波現代文庫版においても、末尾の「補説」の中で、そのことを強調している。
それは手痛い敗戦後、60年にして再び「ファシズム」の危険がわが国に蘇ったといった単純なことではない。この総選挙では、周知のように、小泉自民党が、マス・メディアの影響力とそれまでは選挙などには関心のなかった若者たちの支持に支えられて、大量の「小泉チルドレン」を獲得した。そのことが私には、社会学者富永健一氏の雑誌『世界』の89年3月号に掲載された論文(「保守化とポスト・モダンのあいだ ―日本戦後史における『近代化』の到達点」)を思い起こさせた。
そこでは氏は、戦後日本社会が「いまや世界の最先進国の一つに躍り出た」結果、今では「高度大衆『消費社会』の到来」(その内容は、「産業構造におけるサービス経済と情報化社会、マイクロ・エレクトロニクスやバイオ・テクノロジーをはじめとする数多くの先端的な技術開発」、そして「若い人々を先頭にしてすすみつつある消費社会とファッションの波」であるとされる)という新しい状況を生んでいるとされる。
そこで「新しい」とされるのは、そうした事態が、それまでの「プリ・モダン(前近代)」対「モダン(近代)」の対抗という価値軸を中心に据えた戦後民主主義の時代の発想では解けず、新たに「ポスト・モダン(「近代」以後)」や「アンチ・モダン(反近代)」といった価値軸を加えた「三重構造」ないし「四重構造」としてとらえる視点の確立を要請しているということである。
ナショナリズムや右翼的発想の台頭を「昔に戻る」危険としてのみとらえるのは、いわば「ポスト・モダン」対「モダン」という前述の二元論の立場にとらわれ続けていることを示している。これでは戦えない時代にきているのではないだろうか?
(生活経済政策2006年6月号掲載)