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明日への視角

市民から庶民へ?

間宮陽介(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)

 あきれるほど無責任な人が「責任論」を論じたり、国家どころか身の回りへの義務さえ果たさない人が「国家への義務」を説いたりする。「市民から庶民へ」を唱える人も同様であろう。庶民主義を標榜する人で庶民がいたためしはない。庶民主義者が庶民の代名詞とする八百屋や魚屋が、市民ではなく庶民、などと声高にいったりするだろうか。庶民主義の看板を掲げる人たちのたいていは政治家か学者、庶民性のかけらもない人たちである。
  では庶民主義者の忌み嫌う「市民」がこの日本にどれくらいいるのであろうか。戦後しばらくして、丸山眞男は、「官僚と庶民だけで構成されている社会、市民のいない社会、それが日本だ」と書いたが、今もあまり変わっていないと思う。ある外国人ジャーナリストによれば、日本は市民社会の成熟度という点ではアジアの後進国である。「市民なんてふわふわしたソフトクリームのようなもの」という中曽根康弘氏のプロパガンダが効いたのか、今の日本では「市民」はネガティヴな語となり、菅直人氏や土井たか子氏はマイナス・イメージの代表になっているのだそうである(篠原一『市民の政治学』)。
  ではなぜ日本には市民がいないのか、あるいは乏しいのか。おそらくそれは、公と私の中間領域、半公的・半私的の領域が希薄だからである。日本には官僚と庶民しかおらず、市民がいない、という丸山の言は、官僚を公、庶民を私と置き換えれば、合点がいく。日本には公と私があって中間がない、つまり市民とは、公と私の中間領域に生息する存在だということなのだ。中間領域はふつうは中間団体といわれる。古典的には教会、同業組合、大学などがあるが、もちろんこれらに限られない。さまざまな中間団体は社会という無地の「地」に「図」を描き入れ、ときには、公=国家への抵抗勢力となる。だが昨今の新自由主義はただでさえ乏しいこの中間領域を自由化や民営化という刀で分解し、公と私の二極化を極限にまで推し進めようとしている。ちょうど、ファシズムがそうしたように。

生活経済政策2006年9月号掲載