言論の終焉
山口二郎(北海道大学公共政策大学院教授)
5年間の小泉政治が終わるに当たって、この時代とは何だったのかという総括の議論が盛んである。私も思うことはいろいろあるが、最も大きな損失は、政治における議論が不可能になったこと、難しくいえば、政治的言論空間の喪失だったと考える。
8月15日に靖国神社を参拝した時、小泉首相は、「どうせいつ行っても批判があるのだからこの日にした」と語った。悪さをした時に開き直る子供の言いぐさである。私が子供の時にこんな口をきいたならば、すぐに親に張り倒されただろう。こういう口のきき方に、論理的な批判をしても意味はない。そもそもそういう恥ずかしいことを言ってはならないと子供の頃から教え込む事柄である。小泉という人は、人間としての当然の教えを受けないまま権力者になってしまったのだろう。一国の首相がこれほど幼稚な発言をし、それに対して国民が恥ずかしく思わないという現状こそ、小泉時代の到達点である。
もちろん、一部の新聞その他のメディアでは、小泉首相への批判を行っている。メディアがなすべきことをしていないという批判は、やや酷ではないかと思う。問題は、多くの国民が小泉を許している点にある。
議論とは、自分の考えを主張することだけではなく、他人の話を聞くことによって成立する。信念を持つことは重要であるが、他人の議論に謙虚に耳を傾け、自らの考えを修正したり、自分の主張の弱いところをさらに練り直したりという作業がなければ、議論や対話は成立しない。小泉時代の5年間、首相が先頭に立ってこうした議論の空間をぶっ壊してきた。小泉首相は、「心の問題」を持ち出して靖国参拝を正当化したが、これは攻撃的引きこもりともいうべき状態である。ネット右翼たちは、これを見習って、蛸壺に閉じこもりつつ、気にくわない言説への攻撃に精を出す。政治家の跳ね上がりにお株を奪われた右翼は、より過激な闘いを求めて放火事件を起こす。
次期首相と目される安倍晋三の周囲にいるのは、現代版の蓑田胸喜のような連中である。ここでひるんではいられない。こちらも少し品格にこだわらず、言葉の闘いに参加するしかないのかと思うこのごろである。
(生活経済政策2006年10月号掲載)