「美しい国」はつくれるか
大内 力(生活研顧問・東京大学名誉教授)
政治の世界というのは、訳のわからないスローガンが幅をきかせ、それによって政権の成否がきまる不思議なところだというのは日本に限らないことだが、最近の日本はそのことを再び思い知らせてくれた。小泉内閣のスローガンは政治を中心とする日本社会の改革であり、具体的には民のやれることはなるべく民に移し、官の仕事はできるだけ厳正・簡潔を旨として「小さい政府」を実施するといったものであった。しかし5年という記録的長寿の内閣の施政の結果は大ていはその反対であった。その実例をあげれば際限がないが、何より国や地方団体の施策はますます不十分になり、世界最大の債務国となったあげく、公務員の不正や犯罪は民をはるかに凌ぐようになっている最近の状況を知る者にとっては、それは明々白々の逆説的事実である。
ところで小泉氏も自分の破綻に気がついたのであろう。はじめから考えてあったのか、あとから辻褄合わせを思いついたのかは知らないが、いずれにせよ自民党の総裁の任期の厳守を理由として首相の役割を子分の安倍氏に押しつけて一議員に引き下がり、「改革」責任を曖昧にするという高等戦術をとったのである。
普通の日本人ならそういうトランプのババ抜きに加わるのはご免だと思って逃げようとするところだろうが、それでは政治家は務まらない。むしろ競争者とくにもっとも有力者と考えられていた福田氏をたくみに競争場から外し、小泉氏の政治的作り話を受けとめて、美化させる道を選んだのである。それは日本の汚いところ―自然や環境といった物的なものだけでなく政治、教育、人々の行動様式、物の考え方、他人との関係のつくり方等々といった人的文化にいたるものまでについて「美しい国」にするべく努力するというのであり、その手はじめに憲法と教育の改革をやろうというのである。
まあその辺までは政治の世界のレトリックとして聞き流しておいてもいい。しかし、安倍氏が改めて内閣の命運をかけて努力しなければ「美しい」国にならないというのならば、今の日本はよほど汚れた、きたない国だと考えているのだろう。だが、かつてのより美しくより平和であった日本をここまで穢し汚辱に満ちた国に変えた責任の多くは小泉改革の負うべきものであるとしても、その半ばは幹事長を務めた安倍氏であるはずである。とすれば、「美しい」国をつくるということは、過去を反省し、自らの失敗にきちんとあと始末をつけるということでなければなるまい。本当にそういう努力をするのか。すべてを永田町語の屑箱の中に埋めようとするのか―それが「明日への視角」を決める真実である。
(生活経済政策2007年1月号掲載)