無痛覚症(アナルゲシア)の克服
篠原 一(東京大学名誉教授)
病理学にアナルゲシアという言葉がある。辞書をひくと、無痛覚症あるいは痛覚喪失という現象である。人間は自分の身体や精神に攻撃が加えられると痛みを覚えるが、何らかの理由でそういう苦痛を感じなくなってしまうことがある。
最近の政治状況を考えると、それにもっとも適合的な概念は、アナルゲシアではないか。前回の衆院選では自民党が圧勝したが、ここでは新自由主義的政策によって痛みを受けたはずの敗者が、そういう状況を作り出した政治家に投票することによって、異常な結果をもたらした。子どもをかかえながら職を失い、アルバイトに精出さなければならなくなったシングルマザーが、強いリーダーシップを期待して小泉自民党に投票したという記事を読んで、はっとした。最近では、もっぱら犠牲の対象にされている老人の場合も同様である。近代の原理からいえば、仲間と組織をつくって自分の主張を貫いていくべきところだが、個人が原子化した状況のもとでは、むしろポピュリズムに救いを求めるか、あるいは政治から退場する。これは、人間が思考し、想像する力を失い、スティグレールのいう「象徴の貧困」という状況が増進する現代情報社会の特徴であるのかもしれないが、それにしてもわが国は世界的にもアナルゲシアの最先端にあるのではないか。われわれは痛みを痛みとして感ずるような社会をはやく回復しなければならない。
そのうえに、政治的不安が覆いかぶさる。教育基本法がそそくさと改定され、防衛庁が省になり、また年頭の挨拶で首相が憲法「改正」を宣言する時代となった。かつての十五年戦争ではみこしの担ぎ手が次々とかわりながら、悲惨な最終局面に突入したが、小泉内閣が基盤をつくり、安倍内閣が戦争のできる体制を築き、さらに新しい人が実行するというような形になりそうである。歴史はそう簡単に繰り返すものではないが、人間は過ちを繰り返す。ざくざくという軍靴のひびきが近づきつつある。戦争のもつ痛さは忘れられ、ナショナリズムがもてはやされる状況は、これまたアナルゲシアの典型的な現象である。
こういう流れをただちに切断することが急務であろう。端的にいって今年の参院選は近来にない歴史の分岐点なのではないか。ともかく、痛覚を取り戻したい。
(生活経済政策2007年2月号掲載)