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明日への視角

誰をも不幸にする豊かさ

神野直彦(東京大学大学院経済学研究科教授・生活研所長)

 医者は私に幸福になりたければ、粗食と運動だと教え諭(さと)す。贅沢な食事を控え、乗物を利用し楽をするのではなく、自分の足で歩け。そうすれば、幸福な生活を送ることができると医者はいう。
 医者のアドバイスが正鵠を得たものだとすれば、豊かさは幸福をもたらさないどころか、不幸をもたらすことになる。もっとも、貧困が不健康を招き、不幸に陥ることのあることも否定できない。
 豊かさと幸福との関係には「イースタリンの逆説」が妥当すると考えられる。豊かさと幸福との間に相関関係があることを見出せるのは、貧しい国に限られていることを思えば、ある一定水準の豊かさに到達すると、豊かさと幸福との間には関係がなくなるということが真理だといってよい。
 現在の日本の経済政策は、豊かな者をより豊かにすることが目指されている。こうした経済政策を正当化する背後理念は、トリクル・ダウン効果(trickle-down effect)である。つまり、豊かな者がより豊かになれば、その富の御零(おこぼ)れが貧しい者にまで滴り落ちるという理論である。
 しかし、アダム・スミスやリカードがトリクル・ダウン効果を説いた時には、富は使用されるという前提が存在した。しかも、人間の欲望には限度があるという想定があった。つまり、豊かな者がより豊かになれば、使用人の報酬を引き上げるなどというトリクル・ダウンが生じると考えたのである。
 ところが、現在では富は使用されるために所有されるのではない。富を所有することで、人間を動かそうとする。つまり、権力を握るために富は所有されるために、トリクル・ダウン効果は生じないのである。
 「イースタリンの逆説」からいって日本のような一定の豊かさを実現した国では、豊かな者がより豊かになっても、豊かな者は幸福にはならない。そうだとすれば、豊かな者をより豊かにする経済政策は、誰も幸福にはしないことになる。
 いかなる動物も必要以上の消費はしない。百獣の王ライオンですら必要以上の無益な殺生はしないという。人間も本能的には必要以上の消費をすることなく、幸福な生活を送るようになるはずである。

生活経済政策2007年11月号掲載