総論賛成・各論反対
江波戸 哲夫(作家)
以前、テレビや新聞によって行政の呆れたムダ遣いが大々的に報道され始めたときは、怒り心頭に発したものである。
ところが同じような報道を長い年月聞かされているうちに別の感情がわいてきた。
(いくら指摘され糾弾されても、奴らは絶対に変わりはしないんだ)
いまではなかば諦めの境地となってしまい、事実を知っても何も変わらないなら、知るだけ精神衛生に悪いと思うようにさえなっている。
……年金保険料はいまも流用され続け、まったく必要性の感じられないハコモノはあちこちでポコポコと生まれている。何をいっても“カエルの面に水”である。といって官僚だけが悪いのではない、その後ろに政治家や労働組合がくっついており、さらにその後ろにはムダ遣いした予算が流れ込んで得をする国民が口を開けている。
国を挙げて「ムダ遣い行政」を糾弾しながら、一方で多くの国民が「ムダ遣い予算」を食い物にしているのである。
人は大きな正義を語るときしばしば “総論賛成・各論反対” となる。自分の業界だけはその正義の適用外にしたいのだ。土建業者にかぎらず、出版業界にも報道業界にも学者業界にもそういう人は少なくない。
かつて出版物の再販維持制度の撤廃が議論されている最中、書店組合の集まりで講演した私に一人の商店主が質問した。
「この問題をどう思うか」
私は恐る恐る答えた。
「撤廃を支持しなければ他の業界のカルテルを批判できない。良書を生み出していれば、安売りに駆逐されることはないだろう」
自分がそうだと自惚れていたわけではないが、ここは一番筋を語らなくてはならないと思ったのだ。案の定、書店主たちから集中砲火を浴びせられ、つらい目にあった。
“総論賛成・各論反対”をどう突破すればいいのか?
恥ずかしながら不勉強で、政治学とか財政学などでこんなことが課題になっているかどうかも知らない。
たまにどこかの地方で談合の仲間から抜ける依怙地な業者が登場するが、私にはこういう個人のやせ我慢、美学で風穴をあけることくらいしか思いつかない。
やせ我慢や美学が横に広がり “総論賛成・各論反対”を克服する日が来ることがあるだろうか?
(生活経済政策2008年5月号掲載)