「家族」をめぐる議論の混迷を越えるために
江原 由美子(首都大学東京 教授)
昨年の「消えた高齢者」問題以来、「家族」をめぐる議論がまた活発化している。またというのは無論、「家族」は、この数十年来常に、議論の焦点の一つであり続けているからである。ところがこれまでの議論では、常に意見が対立し結果的に何らまともな政策がとられないできた。民主党の「子ども手当」にも、「家族の絆を破壊するものだ」という批判が一部の人々から強くなされている。「社会が子育てに手を貸せばそれだけ家族の出番がなくなり責任感も失われ家族の絆が希薄化する」というわけだ。結果として日本の家族政策は、OECD諸国の中でも最低レベルとなり、結婚も子どもを持つことも減って、孤立化する人々の群れ(「孤族」?)ばかりが増える社会になってしまっている。
このことは、「家族」について論じることが、意外と難しいことを明らかにしている。難しさを作りだしているのは、次の二つの要因である。第一に、「家族」という人間関係は、ケアを受けることとケアを与えることの両方を含むこと。「家族」という人間関係を維持するためにはケアを与える側の状況を良くすることが重要である。ケアの与え手がケアを提供し続けられるためには、ケア提供を動機付ける価値観だけではなく、「家族」のケアを担い続けることが出来るための資源も不可欠である。ところがこの資源提供こそが、価値観の希薄化を招くとして、批判を招いてきたのである。第二に、「家族」とは「既にある」だけでなく「選択される」ものでもあること。「これから選択する家族」を前にした場合、資源提供がないままにケア提供ばかりが求められるのなら、家族を選択しない方が安全だという判断をする人も多くなってしまう。
戦後日本の家族政策は、ケアを与える人々の動機付けを維持することを主眼として行われてきた。結果として、資源提供がなされず、「家族」を持つことのリスクが高くなり、選択しない人々が増えた。だからこその「無縁社会」なのだ。しかしそれを変革しようとする政策が、再び「家族を破壊するもの」として批判されてしまっている。「家族」をめぐる議論の混迷を解くことが必要であろう。
(生活経済政策2011年2月号掲載)