相談事業の専門性
後藤玲子(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)
近年、相談支援の仕事をしながら、博士論文の執筆を志す院生が増えてきた。嘱託であっても、継続して関わっている担当数は約150件、一時とぎれているケースを含めると400件にものぼるという。例えば、性的虐待の体験をもち、人格障害の診断を受け、首筋に自殺未遂の跡を残す20代前半の女性が、1人暮らしを希望してきた。彼女の意思と状況を何度も確かめたうえで、賃貸契約の手続きをとり、引越しの手助けをし、虐待者からの接近を防ぐ手立てをとる。「あなたと出会えてラッキーだった」という本人の言葉を素直に喜ぶ一方で、誰かを巻き込みながらエネルギーをかきたてるしかない彼女の寂しさに気がつく。支援をとぎれさせないコツとして、先々までの面会日をカレンダーに書き込みながら、このケースの最大の問題は支援の終わりをいまだ予測できないことだと気持ちを引き締める。
ウルリッヒ・ベックは著書『危険社会』の中で、「社会の個人化」を指摘した。家族や会社や地域など個人をさまざまな危険から守ってくれた防壁がなくなって、いまや個人はたった一人で世界社会にさらされている。傷つきやすい個人は、(自分の持ち分である)権利やら人権やらをひっさげて、専門家の扉をノックしなくてはならない。だが、「さまざまな領域の専門家はみな、個々人と向かい合っているときは、自己の矛盾や論争は棚に上げて、これらすべてを自分の考えで判断するよう要求して個々人をその場から立ち去らせる」(東廉・伊藤美登里訳『危険社会』、p270)。
相談事業の発展はベックの指摘する「社会の個人化」と無縁ではない。いわば既存の定型化された専門業務のすき間を埋めるべく、まさに、棚上げされた矛盾や論争のただ中で、おきざりにされた人びとを掬うべくして相談事業が要請される。支援の中身はごくありふれた日常である。特殊な技能は要請されないといえばそうかもしれない。そのことを相談員らは少しも恥じていない。だが、まぎれもなくここには職としての専門性がある。社会に分散するありったけの資源を活用し、そのためには先端的知識へのアクセスを怠らない。定型化されていない不測の事態で、瞬時に的確な判断を下し、問題解決に向けて主導的役割をはたす確かな専門家の姿がある。
(生活経済政策2011年8月号掲載)