経済のグローバル化と産業構造の変革
柴垣和夫(東京大学名誉教授)
日本は過去に二度の産業構造の大転換を経験した。第一は明治期の繊維産業中心の工業化、第二は戦後の重化学工業化である。東日本大震災は第三の大転換、知識集約型サービス産業化への画期をなすであろう。そしてこの転換は意識的にも推進すべきである。
その理由。一つは歴史の必然だからである。今や日本が誇る自動車のようなインテグラル型のモノ造りはピークを越え、先端製品は、IT企業が開発し、主に新興諸国で受託生産される情報端末機器等のモジュール型製品に移行している。もちろんこれら製品の要所に日本製部品が不可欠なことは、震災後の供給途絶で再認識されたが、一部はNIEs製品による代替が進んでいる。自動車も蓄電池の性能向上とともにモジュール型製品化し、海外現地生産が急増しつつある。モノ造りの先発国から後発国への移行という歴史の必然に抵抗することは、日本のモノ造りを神話化することに他ならない。
理由の第二は私の価値観による。産業グローバリゼーションは、モジュール型製品を開発した世界企業と新興諸国の利害の一致によって展開した。これは、資本の国際移動を通じて労働市場のグローバル化が事実上実現したことを意味する。その結果、世界企業は新興諸国の低賃金労働力を自由に利用することが可能となった。これは一面で先進国の産業空洞化と高失業・賃金低下をもたらした。しかし、資本の国際移動による企業内・産業内国際分業は、労働力の移動(移民)を抑制する効果を持つ。それは海外から低賃金労働力を導入して完結的なインテグラル型産業を維持し、その結果、西欧諸国を悩ませている外国人労働者問題に苦しむよりも、はるかに好ましい国民経済の形だと思う。
日本はモノ造り神話にしがみついて、製造業一般の維持にこだわるべきではない。先端技術関連の素材や部品・製品の開発と生産は維持しつつも、基本的には製造業を直接投資の形で新興諸国に移転し、労働集約的でかつ知識集約化の可能性に富む諸産業、具体的には医療・介護等の社会福祉関連や教育・文化関連の対人サービス産業に特化し、あわせて学問・芸術の振興に注力して「一億総知識人社会」の建設を目指すべきである。もっとも、これらの産業のすべてに民間資本の参入が期待できるか否か、それが好ましいか否かについては、問題なしとしない。民間資本には増大する海外投資収益の税制を通じた還元を期待しつつ、担い手としては、地方団体や協同組合、NPO・社会的企業などの、利潤原理から解放された組織が重視される必要があろう。
(生活経済政策2011年11月号掲載)