不信と怒り
坂本義和(東京大学名誉教授)
「フクシマの事故がありながら、日本では、政府に迫る大きな反原発デモが続いていないのはなぜか」と、欧米の友人から訊かれることが多い。
確かに、去年の9月19日に6万人が集まった後、政府や東京電力に脱原発を確約させるような迫力のある、大規模なデモは見当たらない。比較的小さなデモは続いているが、「デモの拡散」傾向は否めない。何故か。
そこで私がすぐに思い出すのは、1954年のビキニ水爆実験と第五福竜丸の被曝に対する、国民的な怒りである。そこでは、「マグロが食べられなくなる」という言葉に示される、食物汚染への不安が強い言動力となった。そして、生活や育児にかかわる「普通の」女性が、東京の杉並で起こした運動が、たちまち全国民の心に訴え、大規模な反原水爆運動を生み出したのだった。今回のフクシマ事故でも、食物汚染の不安は広範に生じ、女性、とくに子どもをもつ女性は、男性よりはるかに強い反原発感情を示している。にもかかわらず、大規模な国民的脱原発運動が、目に見える形で持続していないのは何故か。
理由は、いろいろあるだろう。高度成長を推進し享受したマイホーム中心主義による社会的連帯の解体、原水禁運動の党派的分裂への幻滅、ある種の学生運動のゲバ棒姿が市民に与えた不毛感、バブルの崩壊と新自由主義がもたらした格差と孤独感、等々。ここに見られるのは、根深い不信である。事実、今の日本で辛うじて「疑似民主主義」を保っているのは、政府と官僚への不信、電力会社や原子力ムラへの不信、そして野党も含め基本政策決定能力をもたない国会への不信だと言って過言ではあるまい。
政府に決定的な圧力を加えるための連帯や団結に至らない、拡散した脱原発行動も、同根なのかもしれない。デモを「パレード」と呼び、にぎやかに楽器を鳴らす若者の一隊は、現状への不信を表しているとしても、そこに強い怒りを感じさせないことが多い。それは、本土の多くの脱原発行動と、沖縄の反基地行動とを比べれば分かる。沖縄の行動には、今や、基地だけでなく本土への、不信だけでなく怒りがこめられている。
もし、本土の脱原発運動の基底にある不信が、市民としての自分自身の力への不信であったり、それが「強いリーダー」への期待につながったりすれば、それこそ民主主義の自殺である。
(生活経済政策2012年7月号掲載)