効率性基準の転換
武田晴人(東京大学大学院経済学研究科教授)
近代以降の急激な経済成長が、貧困の解決に大きな貢献をしてきたことに疑問の余地はない。しかし、そこには二つの問題がある。一つは、未だに多くの貧困層に十分な食糧をはじめとする最低限の生活を保障することができないこと、もう一つは、地球環境の限界と再生不能資源の枯渇に伴う危機が深刻化していることである。
それにもかかわらず、未だ成長が万能薬であり、資源の枯渇は市場機構によって代替財の開発が促されることで克服可能だと考えるのは、いかにも楽観的に過ぎる。原子力発電所の再稼働が示唆しているのは、代替財の供給がそう都合よく実現することはないことだろう。しかし、この底抜けの楽観主義から抜け出せない人が多い。
経済学者たちのように、人の幸せを物質的な豊かさから考察することは、一つのアプローチだが唯一ではない。総量が増加しても分配の仕組みが不適切であれば問題は解決しない。しかも、このアプローチには重大な欠陥があった。それは、近代の経済学が労働に関する希少性だけを重視し、労働生産性の増加に専ら関心を払ってきたことである。このイデオロギーは、現代の営利企業のもとでは雇用の削減による営利の追求が、あたかも生産性の増加に結実するかのようなミクロの行動を導く。
もちろん、これによってマクロ経済レベルの総労働時間が短くなる一方、就業機会を失った人びとの所得保障が、営利企業や投資家の税負担のもとで実現し、分配の公正さが保たれるのであれば、問題は小さくなる。
しかし、これだけではすでに時代遅れの処方箋だろう。エネルギーや地球環境の制約は、資源の希少性をもっと広く深刻にとらえる必要性を示す。希少な資源に依存する程度が大きい限り、地球的な規模での産出量の増加には限界があり、豊かな先進国からの所得移転が積極的に進められないと貧困の問題は解決しないし、それすら地球環境への負荷を考慮すると厳しく狭き門をくぐる決意がいる。
労働だけが希少な資源とみて、労働生産性の向上から効率性を計ることをやめて、資源原単位に留意し希少な資源全体からいかに多くの生産を実現しているか、さらに、公平な分配へ貢献しているかに、効率性の基準を置き直す理性的な転換が求められている。
(生活経済政策2012年8月号掲載)