偶感
間宮 陽介(京都大学名誉教授)
ある会の席で話がたまたま集団的自衛権をめぐる解釈会見におよび、「権力者の解釈しだいで改憲が可能なら、平和を戦争に、戦争を平和に解釈しなおしたら、日本を軍事国家にすることは憲法上、可能になるのではないか」と私が戯れたら、五十嵐敬喜さんが、「可能でしょう」と戯れ返した。
もしこのような言い換えが可能なら、「日本国民は、恒久の平和を念願し…」という憲法前文の1節は、その実は軍事国家の宣言だったということになる。そんな馬鹿なことはない、日本語で平和とは争いのない状態を意味し、戦争はその逆だというのなら、集団的自衛権も同じであろう。集団的自衛権が憲法上の自衛権に属さないのは歴代内閣、そして法制局の解釈だったはずである。言葉というものは歴史の積み重ねによって意味を確定していくのであり、それを恣意的にねじ曲げて新しい意味をもたせるのはオーウェルのニュースピーク以外の何物でもない。
似たような言葉の詐術は他にもある。支持者に下仁田ネギを送るのも政治活動なら、SMバーに出没することも政治活動の一環である。ここでは政治という言葉の意味が際限なく膨張している。怪しげな支出を政治資金に含ませるために、政治の範囲を拡張させているのであって、かれらはそれが政治活動だから許されると思っている。
政治家は政治を職業とする人たちであり、政治の範囲を拡張していくことによって大いなる自由を得る。これに反し、市民の場合には政治的だという理由で自由を制限される。この対比は鮮やかである。例の「梅雨空に『9条守れ』の女性デモ」の句に対し、行政側は政治の網をかぶせ(政治を拡張解釈し)、政治的なるがゆえに、公民館だよりへの掲載を拒否するのである。
このような政治の刀狩りによって出来上がるのが、政治は政治家のもの、という構図である。市民社会はこの構図を打ち破るときに出現する。昨今の政治資金問題にふれて思うのはこのことである。
(生活経済政策2014年12月号掲載)