「協同」に共感する若者の育成を「協同」の力で
住沢 博紀【日本女子大学教授】
今日から振り返ると、20世紀後半の政党政治はわかりやすかった。当初は冷戦時代の資本主義か社会主義かというイデオロギー対立、次いで市場自由主義か福祉国家かという明確な線引きが政党政治には存在した。日本でいえば、日米安保・改憲を唱える保守と、平和主義・9条擁護を旗印とする革新の対立である。このどちらの線引きも21世紀に入ると曖昧になった。アメリカを例外に、EU諸国でも日本でも、政党選択の選挙制度を持ちながら、政党の対立軸は限りなく曖昧になってきている。有権者が支持政党に投票する意味と根拠が失われてきている。
ギリシャのチプラス政権選出と、さらに7月の緊縮財政への賛否を問う国民投票に示される有権者の意思は、まったく生かされていない。ドイツでもフランスでも、社会民主主義政党はグローバル金融支配を批判して選挙に臨んだが、政権政党としてはその政策に加担している。日本ではもっと悲劇的である。「コンクリートから人へ」と唱え国民の圧倒的な支持を得た民主党は、選挙公約になかった消費増税のために分裂し下野した。解党した「みんなの党」も維新の会も、都市中間層の多くの支持を得たが、党は有力政治家のそのときどきの意向で動いている。安倍政権は、アベノミクスという経済活性化政策によって得られた支持を、集団的自衛権の承認という事実上の「改憲」に利用している。平和を追求する政党を自認する公明党は、戦争のリスクを広げる安保法制に協力している。
岸信介の「占領レジームの清算=自主憲法制定」というナショナリスト路線の後継者を自任する安倍首相は、日本を再びわかりやすいイデオロギー政治の時代に戻そうとしているかのようである。決定的に異なることがある。20世紀の政党対立は、支持者層の意向と合致していた。グローバル化し、価値観も多様化した21世紀にはこれは不可能である。そこで安倍政権は、メディア操作や政党再編への誘い、有利な時期とテーマでの選挙など政権維持のための政治と、本来の政権目的を分ける。この操作と強権の二重政治こそ日本の最大のリスクとなる。
(生活経済政策2015年8月号掲載)