平等と効率 ー 二律背反神話を超えて ー
今井貴子【成蹊大学法学部教授】
巣立ちの季節である。この春、若者たちはどのような社会へと羽ばたいていくのであろうか。「世界の標準でみて、かなり裕福な国」。今年1月、日本の貧困問題について野党から問われた安倍首相が即座に発した答弁である。その後、首相は日本の貧困が悪化傾向にあると認めたが、6人に1人という高い相対的貧困率に表れるこの問題への危機感が弱いのではないかとの危惧は拭えない。名目GDPで世界第3位の日本は「豊かな国」だといえるのかもしれないが、貧困率はOECD諸国のなかでワースト6位である。貧困ゆえに教育機会を奪われたりしている子どもの数は増え続けている。我々が改めて確認すべきは、貧困削減は可能であると他国の例からも立証されていることであろう。
たとえば、金融危機までは安定した経済成長を遂げていたイギリスも深刻な貧困問題を抱えてきた。1999年に当時の労働党政権が子どもの貧困の撲滅を政府目標とし、やがてこの目標は法制化された。その結果、子どもの貧困率は10年間で7ポイント以上改善し、日本のそれを大きく下回るようになった。
もっとも、貧困に焦点を充てた施策は一定の成果をあげたものの、甚大な不平等に対する積極的な介入策は採られなかった。この成果と教訓から、いまや貧困問題に取り組むのであるならば、不平等そのものを是正しなければならないとする見方が注目を集めている。なぜなら不平等は社会の一体性を損なうだけではないからだ。2014年12月に発表された最新のOECD分析によれば、所得不平等の拡大はその国の経済成長を阻害しもする。
平等の追求は経済効率と両立せず、後者を優先すべきだとする二律背反論が優勢であるが、この点についても有力な対抗言説が出てきている。それは、税と社会保障による事後的な再分配ばかりでなく、人への投資、生活賃金の保障、排除を生まない雇用保障などによって再分配前の当初所得の平等化を図ることで衡平を実現しようとするアイディアである。若者たちが真に豊かな人生を送れるようにするために今求められているのは、二律背反神話を脱して、平等と効率の両立可能性を徹底的に追求することではないだろうか。
(生活経済政策2016年3月号掲載)