左派ポピュリズムは可能か
杉田 敦【法政大学法学部教授】
欧米各国を中心に、右派ポピュリズムの動きが強まり、日本でもそうした勢力が力を増しつつある。これに対抗して、左派もポピュリズム戦略を採るべきだとの議論がある。民主政治が多数決で運用されている以上、多数を占めなければ政治権力を掌握することはできない。苦境の中で、人々が情念に動かされているなら、左派もまた、それに「寄り添う」べきだというのである。
しかし、右派がやっているようなことを左派がやっても、支持が広がるとは限らない。焦点は、右派がよりどころとしているのが、民族などの「具体的」な集団の連帯であるのに対し、左派がよりどころとしているのは、階級などの「抽象的」な集団の連帯である点である。もちろん、民族もまた抽象概念にすぎないことは学問的には明らかであるし、階級もまた十分な実体性をもっているが、一般の人々はそうは受け止めていない。
さらに言えば、右派が、異質な存在を差別したいという人間の欲望に「寄り添う」のに対し、左派がするのは、人を差別してはいけませんという「お説教」である。差別がいけないということは、自然な感情として湧き上がってくるようなものではなく、一定の思考の結果としてしか得られない。
要するに、情念や感情に訴えるという点では、左派は右派に比べて構造的に不利なのである。無理をして試みても、政治的に成功しないし、かえって自らの変質を招きかねない。
一種の敗北主義と見られるかもしれないが、必ずしもそうではない。昨年の安保法制をめぐり、「立憲主義」という抽象的な概念が、一定の浸透を見せたことを想起すべきだ。権力は原則にもとづいて抑制的に運用されなければ危険であるという考えは、自然な感情などとはほど遠いにもかかわらず、社会に根付いた。それは、移民排斥のような、あるいは階級的な怒りのような、爆発的な感情を動員するものではなく、「アクセル」としては弱いが、「ブレーキ」として重要な役割をもっている。いたずらにポピュリズムに走るより、こうした部分に働きかけ続けることが、求められているのではないだろうか。
(生活経済政策2016年9月号掲載)