批判の資格
杉田敦【法政大学法学部教授】
悪人がたまに良いことをすると「本当は悪い人ではなかったんだ」と見直し、逆に善人が間違いを犯すと「化けの皮がはがれた」と叩くのが世の常である。前者より後者の方が「総合成績」では優れているはずだが、世間はそうは見ない。こうした、いわば倫理的な非対称性の存在が、以前から気になっている。
人々に説教を垂れる「文化人」や、政府に批判的なメディアは、無限に高い倫理性を求められ、少し言い過ぎたりすれば徹底的に攻撃される。自らの身に一点の曇りもない者だけが、他人に批判がましいことを言える、というのがこの社会の「倫理観」のようだ。政府批判を役割とする野党も、批判の前に自らを問えと言われてしまう。これでは、権力批判など誰もできなくなる。
たしかに、誰しも説教されるのは嫌いだし、何とか食い扶持を稼ごうとしている時に「きれいごと」を言われたくない、という気持ちも理解できる。しかし、説教や批判や異議申し立ては社会の健全さのために絶対に必要であり、それをつぶしてしまえば、社会はすぐに腐敗して行く。
偽善にも日本の人々は敏感で、チャリティめいたことをすると、売名行為などと揶揄されがちである。しかし、仮に動機に不純な点があったとしても、チャリティによって救われる人々がいる以上、チャリティは社会にとって有用であり、動機をあげつらうのは非生産的である。
スポーツ選手らが差別反対のメッセージを発信したりすることについても、日本社会の反応は非常に冷たい。スポーツと政治は別だ、というのが表向きの理由だが、実のところは、人権尊重の主張などをあまり聞きたくない人々が、スポーツ選手に発信の資格があるのかと難癖をつけているのだ。人権問題は党派的な対立とは別の普遍的な問題であり、あらゆる機会に発信されるべきだという視点が、そこには欠落している。
(生活経済政策2020年10月号掲載)