根性論から社会を取り戻す
禿あや美【跡見学園女子大学教授】
強い精神があれば困難を乗り越えられるという「根性論」は、日本の職場に根強く存在する。長時間労働、無理な納期・急な仕事への応対、基本的に「断れない」転勤や単身赴任といった日常の風景は、労働者個人の私生活を、多かれ少なかれ犠牲にして成り立っている。「生産性」に欠けるものを劣位に置き排除する姿勢といえる。
こうした根性論は、政策にも反映されている。同一労働同一賃金政策では、いわゆる正社員と非正社員の間の不合理な格差の是正が目指されてはいるものの、この政策を解説する記事やインターネット上の「指南」では、同じ仕事をしていても、正社員に転勤や異動の可能性があれば処遇差の合理性を説明できるかのように示される。
「正社員は『いつでも何でもどこでも』といった拘束的な働き方と引き換えに、雇用と賃金の安定という保護を享受してきた」という正社員に対する認識を前提に、この政策の合理性を判断する「基準」がつくられている。しかし、この政策では非正社員の処遇は改善されないばかりか、正社員の処遇がより過酷なものへと固定化されてしまうことになる。なぜなら、正社員の働き方を改善すると、非正社員との処遇格差の根拠が失われるからである。つまり、企業側からすると、正社員の働き方が過酷であれば、その過酷さをもって、賃金格差の説明がつき、低賃金の非正社員を、安定的に活用できることになる。ひいては、正社員の好処遇の維持にためには、「いつでもなんでもどこでも」といった拘束的な働き方を改善してはならないことになる。労働組合は、正社員の賃上げと「働き方改革」を同時に実現できなくなってしまう。こうして根性論の再生産が続いてゆく。
私たちは人間である。人間の生活は根性論では乗り越えられない。乗り越えられたかのように見えるだけである。それなのに、根性論を前提にする人々が集まった集団は、職場や政策決定の場など、社会のいたるところに形成されている。彼らが前提とする「生活」は、根性で乗り越えられる元気な人々のみで形成されるリアリティに欠けるものである。そうした集団に支えられた政府の「決定」が、自助・自粛要請となり、私たちの生活を根性論で塗り固めたことが、このコロナ禍における困難を、より深めたといえるのではないだろうか。
(生活経済政策2021年8月号掲載)