忘れてはならない「温かい心」
高橋伸彰【立命館大学名誉教授】
新自由主義の元祖と言われるハイエクは、自ら積極的に新自由主義者と名乗り、そう呼ばれることに誇りを抱いていた。ハイエクは「政府vs市場」といった単純な対立軸を設定して、政府を批判し市場を支持したのではない。1930年代の大不況時にケインズが唱えた有効需要政策に対しても、ハイエクは一定の理解を示している。ただ、「特殊な状態に対する一つの解決策でしかなかったはずの自分の理論を、一般理論として主張したのは大きな誤りだった」と批判したのだ。
ハイエクは、政府よりも市場のほうが効率的だから「民間にできることは民間に委ねれば良い」とは言わなかったし、規制や保護よりも「自由な市場にまかせるほうが高い成長を実現できるから競争は望ましい」とも言わなかった。不完全な知識によって政府が人びとの行動を規制したり保護したりするよりは、人びとの自由な決定にまかせたほうが結果はどうなろうとも、否、結果がどうなるかわからないからこそ「まし」だと言ったのである。
ハイエクが求めたのは自由の条件であり、自由の結果ではない。いわんや、大企業や富裕層がより多くの所得や利益を得られるように経済行動を自由にすべきとは、口が裂けても言わなかった。「学問をする者の任務は、目の前にある政策に影響を与えることではなく、あくまでも物事の基本を、人びとに明らかにすることにある」と、ハイエクは考えたからだ。
しかし、自由の結果はハイエクが看過するほど、人びとが受容できるものではない。ケインズが救った非自発的失業だけではなく、未だに解決されず放置されたままの格差や貧困も自由の結果に他ならない。時の政権に媚びを売り、政策を売り歩くのが「学問をする者の任務」ではないとしても、目前で起きている問題を静観して済ますのは「学問をする者の冷静な頭脳」というより、むしろ「冷たい心」ではないか。
経済学がモラルサイエンス(道徳科学)なら、経済学を志した者は他者の痛みに同感する「温かい心」を、危機の時だけでなく普段の生活においても忘れてはならないのである。
(生活経済政策2022年3月号掲載)