人類のいつもの条件:疫病と戦争
住沢博紀【日本女子大学名誉教授】
つい最近まで、私たちは地球の生物多様性にしろ、一国の民族多様性にしろ、あるいは個性の尊重や性の多様性にしろ、ダイバーシティについて多くを議論してきた。北京冬季オリンピック開会式でも、現代中国の民族多様性が演出された。21世紀が人類史の中でもグローバルな進歩の世紀であるかのようであった。
しかし現実には、人類史で繰り返されてきた条件、疫病と戦争に私たちは直面している。さらに地球温暖化による自然災害が加わる。コロナとの闘いでは、基本的人権の多くに制限がかけられた。政治に目を向けると、中国の民族多様性も香港との一国二制度の存在を許さなかった。プーチンのウクライナ侵略は、1930年代に回帰した印象を与える。
ナチの第3帝国も大日本帝国も、独裁的な権力のもと戦争を始めた。したがって1945年には、プルーラルなデモクラシー(多元的な価値、複数政党制、立憲主義など)が戦後世界の構築の礎となった。もちろん1945年以後も、国連憲章をかいくぐり英米による戦争もあった。しかし日本とドイツはプルーラルな政治体制の意義を理解し、戦後自由主義体制の模範国となった。
それから77年、20世紀後半は米ソ冷戦時代となり、世紀の変わり目にはグローバル化とアメリカの一極優位の時代となった。2022年の今、第3期が始まろうとしている。個人の自由に価値を置く世界と、権威主義的体制の諸国という対立構図が示される。プーチンの始めた戦争をみると、プルーラルな政治体制の意義が再認識させられる。
ダイバーシティとの違いは、プルーラルの概念には常に権力問題が含まれていることである。多様な意見を許容し、権力を制限する社会や国家か、それともそれを許容しない独裁者、政党、軍などの権力者(集団)が存在する社会・国家かという事になる。
翻って日本を考えた場合、戦後の理念を今も継続・発展させていると確信をもっていえるのだろうか。かろうじて日本国憲法の存在がそれを保障しているが、政権交代のない政治、法治国家の原則を軽視する官僚組織や正面から向かい合わない司法制度、大企業中心の産業システムと弱い労働組合、個性の発展を抑圧する教育制度、メディアの自立性や批判力では先進国では最低のランキングなど、プルーラルな陣営に属する権利を持つのかどうかは疑わしい。しかしこの点で、一人一人が自分事として考え、行動しない限り、次の30年の日本の立ち位置は限りなく曖昧になる。
(生活経済政策2022年4月号掲載)