「労働存在」を基盤とする「人間存在」は可能か
住沢博紀【政治学者・日本女子大学名誉教授】
今では関係者も少なくなったが、総評・社会党の時代の「平和経済」(平和経済計画会議)は、連合・民主党の時代の1997年、「生活研」(生活経済政策研究所)に移行した。この時尽力された高木郁朗さん(日本女子大名誉教授)が、9月23日に逝去された。高木さんとともに歩んだ浜谷惇さんが、本誌11月号に追悼文を寄せられている。総評・社会党の時代から連合・民主党の時代まで、労働運動や政策提言へのシナリオライターであったといえる高木さんの最後の著書は、『戦後革新の墓碑銘』であった。その中軸には「労働」があった。
働く者を基盤に社会制度を構想すること、これを「労働存在」(labor identity)にたつ福祉国家と規定すると、20世紀は「労働存在」の世紀であった。これに対して、21世紀は「人間存在」(human identity)の世紀である。すでにチャップリンの映画でも、H.アーレントの社会哲学でも、オートメーション化の時代には、労働現場の疎外や「労働の消滅」が語られていた。
21世紀に入り、AIやメタバースとアバター空間など、ホワイトカラーも職を失い、労働現場も仮想化しつつある。疫病、地球的規模での難民問題、気候変動による災害や食糧危機、遺伝子工学の発達など、「人間存在」そのものが脅かされている。労働を根拠とする失業保険から、市民給付などへの転換が進行する。価値観においても、多様性の尊重や次世代への責任など、「人間存在」の保障が軸となる。
しかしSDGsの17項目を見ても、「労働存在」に立つ制度は依然として重要である。ただ多くの国では、「労働存在」の人々と「人間存在」の人々に社会は分断され、民主主義が危機に瀕している。ドイツでは、IGメタルが2年間の労働協約において、8.5%の賃上げと3000ユーロのインフレ対策一時金払いを勝ち取ったように、「労働存在」は「人間存在」と共にバランスをとりまだ機能している。しかし「人間存在」を問う将来への課題は大きい。
ひるがえって日本の場合はどうだろうか。日本では「労働存在」の問題も「人間存在」の課題も、一部でしか制度化されず社会的な包摂からは程遠い。新たな「墓碑銘」を避けるために残された時間は多くはない。
(生活経済政策2022年12月号掲載)