セキュリティと自由
杉田敦【法政大学法学部教授】
セキュリティの語源は「不安がないこと」である。誰しも不安なく暮らしたい。しかし、一切の不安をなくそうとすれば、自由は失われてしまう。
セキュリティと自由との関係を考えぬいたのが、17世紀のトマス・ホッブズである。個人が自由な判断で行動すれば、人々は奪い合い殺し合い、人生は「孤独で貧しく、辛く残忍で、しかも短い」ものになるので、自由を放棄して共通の権力による命令に従うべきとした。内戦という極限状態で考えたとはいえ、命を奪うと脅されて従うのも自由な選択であるという彼の自由観にはついて行けない。
他方で、19世紀のJ.S.ミルは、とりわけ思想・言論の自由などの内面の自由を極限まで擁護した。思想や言論を弾圧するのは政府よりもむしろ社会の「多数派」であるとし、多数派が嫌がるような言論(神の冒涜など)こそむしろ真理かもしれないので、何でも言って良いとした。そうした言論で社会のセキュリティが低下したとしても、それは社会が甘受すべきとしたのである。近年の日本での「表現の不自由展」の経緯などを考える上でも、興味深い議論である。
演説中の政治家にヤジを飛ばし警察に強制排除された聴衆が訴えた訴訟で、最近、高裁判決が出たが、原告一人については、主張が認められなかった。暴力的な行為は絶対に許されないが、政治家の意見に対して言葉で意思表示する自由は、もっと尊重されるべきではなかろうか。しかし、ネット上などでは、演説は静聴せよというセキュリティ重視の意見が多く見られる。
日本社会が、自由よりもセキュリティを重視することは、コロナへの対応にも表れていた。公衆衛生への配慮が何より優先され、行動規制等に対して、海外のような抗議行動はほとんど見られなかった。それが健康被害を少しでも減らしたとすれば、もちろん良いことであるが、同調圧力のあまりの強さは、自由との関係で新たな不安を作り出す。
今はまだ、戦争は遠い国の出来事と思われているが、もしもそれが近くに迫ってきた時に、私たちの社会は自由な思想や言論を維持することができるのだろうか。それとも、セキュリティへの関心が、すべてを流し去ってしまうのだろうか。
(生活経済政策2023年8月号掲載)