「民の声」と「民主主義の後退」
安井宏樹【神戸大学大学院法学研究科教授】
「民の声は天の声というが……変な声もたまにはある」—福田赳夫元首相が1978年に自民党総裁選の党員投票で敗れた際の弁であるが、田中派が資金力に物を言わせて仕掛けてきたドブ板選挙への恨み節という背景を捨象して、敢えて字面だけを眺めると、意外と味のある表現に思えてくる。人間に善悪の両面があり、万能の存在でもない以上、その声を集めた「民の声」に邪心が混じることはあり得るし、無謬とも言えない。1932年には、ドイツの有権者の3割がナチ党に票を投じて4割近い議席を与え、ヒトラー独裁に道を開く結果となった。
それ故、「民の声」が政権担当者を決める民主主義体制では、政権の過ちを食い止めるための様々な仕組みが必要とされてきた。過ちを指摘できる言論・集会の自由、人々の基本的権利を侵害するような政権の暴走を差し止められる司法審査、失政を重ねた政権担当者をすげ替えることができる自由で公正な選挙の定期的実施、等々であるが、いずれも広い意味で立憲主義を支える仕組みと言える。
しかし、こうした仕組みは「民の声」の威光を振りかざすポピュリスト政治家によって破壊されてしまうことも多い。ハンガリーやポーランドでは、選挙に勝利した右派政権が司法の独立を骨抜きにする「改革」を行い、「民主主義の後退」と批判された。この秋に大統領選挙が行われる米国でも、前回選挙での敗北を認めないトランプ前大統領が有力候補となっており、米国の民主主義が問われる選挙になるとの声も聞かれる。
こうした危うさは対岸の火事ではない。日本の報道自由度はG7の中で最下位。最高裁の違憲審査権は具体的な訴訟を通じて行使されるため、暴走の被害がないと出番がない。選挙は比較的自由・公正に行われているが、小選挙区制の歪曲効果が大きいため、相対多数でしかないはずの「民の声」が、あたかも全国民の声であるかのように飾り立てられがちである。そして何より、選挙での有利さに胡座をかくかのように、アカウンタビリティーに対する真摯さが政権与党から失われている。「信なくば立たず」—2021年に自民党総裁選の所信表明演説でそう語っていたのは、岸田文雄首相だったのだが。
(生活経済政策2024年3月号掲載)